コロナショックの渦中で賛否が分かれるところですが、僕はあえて「釣り自粛派」ではないという立場を明らかにしておきます。釣りには行っていませんが、ただそれを他人に強いるつもりはありません。
他の記事でも同じことを書きましたが、釣り人なんて(僕も含め)もともとバカばっかりなんだから、自宅待機の大義名分で街に居座り、コンビニやスーパーに出歩かれるよりも、遠く山奥のリザーバーに浮かんでてもらった方がよっぽど社会のためになります。…というのは、半分ジョークだったんですけど、あながち間違ってもいないと思います。
行きたい奴は釣りに行け、と言いたいわけではなく、安全に配慮し、近隣の住人に不安感を与えないことが果たしてできるのか? これはなかなか難しいですが、完ぺきにできるのであれば問題ないということです。ジョギングや散歩、自転車がよくて釣りがダメというのは無理がありますよね。
今回は釣り自粛のムーブメントに対し、言いたいことを言わせてもらいます。
目次
釣り自粛は正義か?
自粛とは「自分から進んで、行いや態度を改めて、つつしむこと」を指します。他人に強いることではありません。
スポーツ庁の鈴木大地長官は「家の中にこもりきりだと、メンタルヘルスにも害が及ぶ可能性があるため、感染のリスクがない環境での運動、ジョギングのような活動は行っても問題ない」と発表しました。諸外国でも、自転車をはじめとしたスポーツはむしろ推奨されている国さえあります。
それじゃあ釣りも。と考える人がいてもおかしくありません。
ですが今や釣りを自粛する釣り人が、堂々と釣りをする釣り人を叩きまくっています。「俺は我慢してんだからお前も我慢しろ!」というわけです。まさに集団ヒステリー、いかにも日本人的な発想ですよね。
平日の仕事が休みになって暇を持て余している人が釣りをしようものなら、「(俺が平日は仕事をしていて休日は)自粛しているのに楽しそうにバス釣りしやがって!許さん!」と言いたげな人がリツイートを埋め尽くします。
ともに苦しむことが美徳。死なばもろとも。抜け駆けが許せない民族。だから「嫌われる覚悟」がない人は成果を出せない世の中。それが日本です。

一致団結、一枚岩、と言えば聞こえはいいですが、ある考えを他人に強いるのはただの集団心理です。フランスのような超個人主義国家で起こっている団結とは全然意味が異なります。
集団心理は群集状況の場において個人間の心的相互作用の集合過程を通して発生し、形成されるのである。こうした意味合いにおいて、群集心理はけっして静態的、固定的な心理や意識ではなく、不安定で変化しやすい。
ある大きな流れの一部だけを見て、短絡的な解釈で考えを発信してしまう人、ただ流行しているだけの発信を、いかにも正しい考えのように捉え、乏しい表現力で伝言ゲームをしているだけの人。
「脱原発!」と言っている人たちの多くは、電気代が上がればこれにもまた異を唱えます。これがいま社会情勢を牽引している日本人のステレオタイプです。基本的に「カッチョいいことを言いたいだけ」なんです。

釣り自粛の話題からちょっと脱線してしまったので、一度話を戻します。
ひょっとして、すぐに終わると思ってない?
いま4月の下旬に差し掛かっていますが、自粛という流行語を声高に発信する一般の釣り人は、大きな勘違いをしている可能性があります。
- ひょっとしてこの状況が5月中にでも終息すると本気で思っているんじゃないか?
- わずか1カ月や2カ月我慢すれば、元通りに釣りができると本気で思っているんじゃないか?
と心配になります。ハッキリ言って、そんなことはあり得ません。むしろ激化するのはこれからです。緊急事態宣言が解除される可能性はありますが、緊急事態宣言の解除と驚異の終息には何の関係もありません。自粛を他人に強いる人は、感染のリスクがなくなるまで自粛していてください。
ちなみに、2002年11月に起こったSARSでは、2003年7月31日までに延べ 29 か国で患者数8069人、死亡者数775人(WHO調べ)でした。WHOによって終息宣言が出されたのが2003年7月5日なので、実に9カ月間もの間、渦中にあったわけです。
これに対し新型コロナウイルスでは、すでに18万人が亡くなっています。一瞬にしてSARSの200倍以上の被害規模です。これが「あと少しの我慢」で終息すると思っている人は、本当に頭のヤバイ人です。
少なくとも僕個人は、2020年内は通常通りの経済活動ができないことを覚悟しています。
「5月6日まで自粛します!」とか「夏の釣りのために今は我慢!」なんて言っているキッズは、もうどうしようもないバカです。
アフターコロナにこれまで通りの釣りができると思ってない?
もうひとつ心配なのが、一度閉鎖された釣り場やスロープが、当然のようにまた解放されると本気で思っているんじゃないか? ということ。
まさかそんな人はいないと思うんですが、いつ訪れるか知れない「アフターコロナ」に、これまで通りの釣りができると思っている人はおめでたすぎるアホです。
自然災害や金融危機は、それらを乗り越える際に出し合った知恵や行動が、すべてではないにしろ、その後も「~~べきである」という社会規範となって根を張ります。
とくに今回のコロナショックは、金さえ投じていれば生き抜けた2008年のリーマンショックや、被災地域の限られていた2011年の東日本大震災とは異なり、「すべての国民が平等に命の危機を感じた経験」となります。これによって生じた社会規範の根は深くならざるを得ません。

そうした流れの中で、自粛とソーシャルディスタンスの概念は、コロナ去った後でさえ教訓として残ると思います。もともと犯罪行為と言っても過言ではなかったため池での釣りや、住宅に隣した河川での釣りは、もう二度とできなくなるかもしれないと思っておいた方がいいですね。
僕はそもそもそういったフィールドで釣りをしないので構いませんが、痛手に感じるキッズは多いと思います。少なくとも近隣の人々は、一度完全に釣り人のいなくなったフィールドには、もう二度と釣り人に帰ってきてほしくないと考えるわけです。
重要なのは0か1かの極端な論理ではなくて、人に迷惑をかけず、自分の命を守りつつ、どのように釣りをすべきか? これを議論すべきだったんじゃないかと思います。いずれにせよ、なんでもかんでもとりあえず自粛、禁止、閉鎖をしたのでは、何をもって終息とするのかがあいまいです。
WHOの終息宣言なのか? 緊急事態宣言の解除なのか?
それとも全国民の不安の解消なのか? だとしたらコロナが去ってからも、いつまでも自粛、禁止、閉鎖するのが正解です。
釣りというコンテンツ自体がヤバイ時代を迎える
釣りに関係するコンテンツでビジネスをしている企業や個人にとって、自粛ムードが及ぼす影響は多大です。
僕は本業が何なのかわからないぐらい色んな仕事をしていますが、実は釣りでも収入が発生したり、製品の開発に関わったりすることがあります。あくまでもブログは趣味で運営しているので、ここで公表するつもりはありませんでしたが、この際言っておきます。でも今は仕事としての釣りは自粛しています。
養うべき家族もいます。仕事で都心に出なきゃならない僕はひときわ感染リスクが高いので、3月から地方に家を借りて家族を住まわせています。これの維持にもかなりコストがかかります。
とはいえ僕個人の問題は、それほど大きくありません。ただ、このような状況が続くと、釣りというコンテンツ自体が終わってしまうとまではいかなくとも、ますます斜陽になるのは簡単に想像がつきます。
メーカーや小売店は大丈夫なのか?
いま流行に乗っかって自粛を強いることが正義だと思っているキッズは、釣りというコンテンツそのものを支えてきたメーカーや小売店が、あなた方のせいで経済活動を維持できなくなる可能性について考えてみましょう。
釣り業界を牽引している、釣り自体を仕事にしている人たちにさえ自粛を求める人たちは、当然、自身の経済活動をやめた上で発言しているんですよね? まさか自分は会社に通う、もしくはリモートワークで仕事をしながら、他人には仕事をするなと言ってるわけではないですよね?
遊びと仕事の区別がつかないのは、社会に出ていない子供か、社会に出て何も学べなかったバカだけです。
コロナ終息で息を引き取る可能性も
まずあり得ないことですが、年内に事態が終息したとします。そうした時に、2021年、まともな新製品をロードマップ通りに発表できるメーカーがどれだけあるのか?
開発過程にある製品のテストも行えず、プロモーションも行えず、マーケティングが十分に行き届いていない製品を無責任に発売できるメーカーがどれだけあるのか?
そう思うと、終息するのはむしろメーカーかもしれません。小売店、代理店、媒体社も同様に。
まとめ
緊急事態だから自粛、なのか、俺が自粛してんだから自粛しろ、なのか。本当にわからない人が大勢います。ウイルスを移さない、移されないのが目的であれば、自粛のやりかた、程度にもいろんな様式があっていいと思います。
他人に何かを強いる人は、自分がまず同じことができるのかを考えましょう。経済活動をやめろと言う人は、自身の経済活動もやめろと言うことです。すべての人にとっての釣りが、あなたと同様にただの遊びであればいいですが、そうでない人もいるんです。